野瀬 泰良(のせ たいら)のホームページ  (日本の古代史、中世史を随想する)
 
 
 
   
ご感想をお聞かせ下さい。
野瀬泰良のメールアドレスです。
 
 
2005年12月
太平記時代の河内を探訪する
シリーズ第一回
赤阪城、1331年秋
2006年05月28日
太平記時代の河内を探訪する
シリーズ第二回
千早城、1333年春
2006年12月28日
太平記時代の河内を探訪する
シリーズ第三回
正成、東高野街道を京に通う
2007年11月01日
太平記時代の河内を探訪する
シリーズ第四回
宇治川の対陣
2007年11月03日
太平記時代の河内を探訪する
シリーズ第5回
京を睨む風林火山の旗
2008年09月15日
太平記時代の河内を探訪する
シリーズ第6回
桜井の別れ
2008年11月20日
太平記時代の河内を探訪する
シリーズ第7回
観心寺 兵庫からの悲報
 
     

■2008-11-20

太平記時代の河内を探訪する
「伝説の虚構を暴き、正成最期の真相に迫る第二弾」

第七回 観心寺 ―兵庫からの悲報―


建武三年五月二十五日、夜明け前


  人は何時の時代からかくも打算的になったのか。歴代の帝(みかど)は天孫降臨の御心を継承され、民を我が子のように慈しみ、仁徳で治めて来られた。だから人は自然に帝を崇め、心からお仕えして来たのだ。そのことを忘れたとでも言うのか。敗走した足利兄弟を討つべく出陣した官軍は三万もの数であったのに、息を吹き返した足利兄弟が海から陸から兵庫に攻め寄せる今、新田義貞に従う兵達はいつしか一万名にも減少し、逆に新しく統治者になると見られる足利兄弟には連日加勢者が駆け参じる有様で、雪の上を転がる雪玉の如く、大軍は更なる大軍へと膨れ上がって行く。それを民意と言うならばそれまでだが、その民意が理念を失い、損得勘定に毒されてしまったことを正成や義貞は共に嘆くのであった。
  義貞との会談が終了するや、正成は楠木勢に松明をかざさせ、湊川の川原に急がせた。往時は鵯越(ひよどりごえ)から和田岬まで流れる湊川が兵庫を東西に二分し、長田の沖から攻め寄せる尊氏軍も、垂水方面から攻め寄せる直義(ただよし)軍も、京に進軍するには共にこの川を渡河しなければならなかった。五百名余りの楠木勢は夜を徹して河原に杭を打ち、縄を張り巡らし、足利の騎馬兵が湊川を自在に駆け抜けぬようにしたのである。
  空が白み始める頃、正成は僅かの兵を湊川に残し、会下山(えげさん)に楠木勢を集結させた。彼らに一時の休息が与えられたのは、この山を俄砦に見立てて陣幕を張り、ここに楠木ありと持参した総ての菊水軍旗を立てさせた後のこと。官軍が全員無傷で京に戻れるように、その後足利軍が総力挙げてこの山を包囲するように、そして夜を徹して準備したことが徒労に終わろうとも湊川が主戦場とならぬようにと正成は天に祈っていた。

新田軍、上陸する足利水軍に矢を射尽くす

  一三三六年(建武三年)五月二十五日の夜が明け、正成の願い空しく「兵庫の戦い」ではなく、「湊川の戦い」と言われる戦が繰り広げられる長い一日が始まった。五月と言っても旧暦であるから、二十五日はそろそろ梅雨が明ける頃だったろう。日の出とともに群青の夏空が拡がった。海上には三千艘もの雲霞のような船団が上陸の機会を伺っていた。
  正成と義貞との間には、帝を守護する為にも官軍は無傷で京に戻らねばならないが、憎き尊氏には一矢(いっし)報いたい義貞の希望を容れ、足利の水軍向けて浜から持てる矢を射尽くした後に官軍を撤退させる話がついていたと筆者は考える。
  足利水軍の上陸作戦は、打ち寄せる波の如く、何度も試みられた。だが浜を守備する新田軍が雨あられのように射かける矢に、浜に漕ぎ寄せる者らは残らず負傷し、海中に投げ出されては鎧の装着が災いして溺死した。
  しかし新田軍が矢を射尽くすのには、さほどの時間を要しなかった。東の灘の浜を見れば細川勢など足利方の兵らが続々と官軍の退路を阻もうと上陸し始めている。新田義貞はしばらく天をにらんだ後に、大音声(だいおんじょう)にて、「敵中を突破し、総員退却せよ!」と命じた。時は午前十時。官軍が立ち去った浜に足利水軍は一挙に上陸を開始する。
 
会下山からの正成・正季兄弟の攻撃

  会下山の頂から足利直義の本隊が蓮池に陣を設営するのが確認できた。直義の陣でも会下山の菊水軍旗に気づいたらしく、しばらく軍議を重ねていたが、やがて何事も無かったように真っ直ぐ東に向かって進軍させた。直義が正成の偽装作戦を見抜いたのかどうかは定かでない。どうやら会下山には敵が攻め寄せる気配は無くなった。正成は心を決め、弟の正氏、妻久子の兄、南江正忠に総ての歩兵を預け、「今すぐ湊川の河原に行って敵を待ち伏せ、官軍が西宮辺りに撤退するまでは、足利の一兵たりとも渡河させるな」と命じた。
  残る百名足らずの騎馬兵に正成は「足利直義の本陣に斬り込むからついて参れ」と命じ、弟の和田正季(まさすえ)と轡(くつわ)を並べて蓮池へと駆け下った。楠木兄弟三男の正季は、和泉に本拠を持つ和田氏の分家の婿になっていた。和泉の岸を和田氏が領有したので後にその地を岸和田と呼ぶようになったのだ。
  赤松勢は直義を左翼から守護する位置にありながら、左手から楠木隊が怒濤のように駆けてくるのを見ると、衝突を避けて道を開けたから、正成らは難なく直義の本陣に斬り込めた。天下の副将軍の直義も楠木勢の狙いが自分の首のみだと知るなり、恐れをなして垂水方面から攻め寄せる味方の兵らの中を一騎逆走して西へと逃げ去った。直義を取り逃がした正成は深追いせず、一旦は会下山に戻り、今度は尊氏の本陣目指して斬り込んだ。太平記によれば、このような反復攻撃が六時間の間に十六度も続けられた。即ち午後四時頃には楠木の騎馬兵らの生存者も激減し、残った生存者の総てが負傷者となって仕方なく攻撃を中止したのだと思われる。
 
湊川に繰り広げられる死闘

  その間に新田軍を追って湊川を渡ろうとする足利方の騎馬兵も多数いた。ところが河原には誰の仕業か、縄で結ばれた杭や戸板が並んでいる。足利の兵が邪魔な縄を断ち切ろうと馬を停めれば、戸板の陰から飛び出す楠木兵らに槍で突かれて落馬し、斬殺された。この騒ぎを聞きつけ、新田軍に従っていた菊池勢数百名が湊川に戻って来たので、楠木勢を大いに奮い立たせた。そして瞬く間に湊川の河原が鮮血に染まる戦場となった。
  楠木勢の本隊は菊水軍旗はためく会下山ではなく、実は湊川の河原に伏せていたのだ、との情報は足利両軍にすぐに知れ渡った。京の戦いや尼崎での戦いで楠木には煮え湯を呑まされた足利与党の武者たちは、今こそ憎き楠木に恨みを晴らそうと、こぞって湊川に急ぐのだった。
  午後四時を過ぎた頃、楠木勢の大将、正成が湊川の戦場に姿を見せ、楠木菊池軍の指揮をとったので、その河原は敵味方入り乱れて死闘が展開される地獄絵図と化した。新田軍を追って一刻も早く東進したい足利軍ではあったが、この日は結局、湊川から東に進むことができぬまま日没となったのである。

観心寺で待機する遺族に正成の首が届く

  兵庫での戦況、即ち新田義貞が戦場を離脱した為に残された楠木勢は加勢した菊池勢と共に全滅したとの悲報は、すぐ東条に届いた。正成の妻、久子は夫の遺言通り、屋敷を空にし、幼い子供達を連れて付近の観心寺に身を寄せた。領土を明け渡し、今後は足利幕府に従います、との意思表示である。
  河内長野市寺元にある観心寺は、大宝元年(七0一年)に役小角(えんのおずぬ)が草創したのを、弘仁六年(八一五年)弘法大師が真言密教の法具を納めて観心寺としたと伝えられる。宗派は高野山真言宗であり、現在の住職は正成公の報恩愛国の精神を賛嘆する講演を各地でなさる永島龍弘氏である。続いて観心寺に、西宮辺りで足利軍に追いつかれた新田軍が惨敗したので、帝は遂に京を捨て、叡山に逃れられたことが伝わった。
  やがて足利尊氏の命を受けた瀬川有隣なる者、正成の首を遺族に返すべく東条の荘に入ったが、屋敷は既に空となっていたので楠木家の人を尋ねて千早城まで出向き、そこにいた松尾季種に正成の首とともに将軍尊氏からの伝言を預けて帰った。
  観心寺に伝えられた足利尊氏からの伝言は次のようなものであった。この度の戦は、正成殿が主上(天皇)の命を受け、仕方なくこちらに刃を向けたものであるから、正成殿が討ち死にした今となってはご遺族に何の恨みもなく、楠木家の旧領、東条の荘のみ本領安堵(領地領有を認める)とする。遺族は安心して屋敷に戻るが良い。正成公は湊川にてお味方同士で刺し違えられたのであって、我らの中に公のお命を頂戴した者はおらぬことを承知してほしい。なぜ自決なされたのか、事情は分からぬが、主上のご政道への無言のお諫めであったのか、ご親政の行く末への絶望感だったのか、そのようなところではなかったか、と有隣私見までを付け加え、松尾季種に言付けていた。
  しかし久子夫人には、松尾からそう聞かされても夫が自決した事情がまったく納得できなかった。明くる日、観心寺住職、瀧覚(りゅうがく)によって正成や、湊川で命を散らした親族の者たちの葬儀がしめやかに執り行われ、正成の首は寺の境内に手厚く葬られた。
 
兵庫からの生存者が東条に戻る

  正成らの葬儀から数日後、正成の小姓、竹童丸が兵庫から帰参した。あの日は竹童丸ひとり会下山の留守居を命じられていた。正成率いる騎馬兵が何度も何度も足利の本陣に斬り込んだ後、やがて会下山に帰陣する者の数がめっきりと減り、しかもその者たちが皆負傷し、中には武器すらも失い、走れる馬もないという有様で、遂に正成は満身創痍の弟の正季に次のように語った。
「このあたりで我らも戦場を離脱するとしよう。最早新田殿は西宮辺りまで落ちのびた頃であろう。我らは充分に戦った。この山の裏に登って、川を遡って行くと烏原(からすはら)村という山村に達する。おまえ達は先に行き、そこで儂(わし)を待っていてくれ。儂はこれから湊川の戦場に行き、一族の者達を連れ戻ってくるから。」
  正成の厳命であったので、負傷した兵たちは不承不承に足を引きずりながら、ひとりひとりと会下山から姿を消して行った。竹童丸だけは主人を待つことが許された。だが正成はいつまで待っても姿を見せず、そのまま還らぬ人となったのである。
  帰ると言った夫の帰れなくなった事情が腑に落ちぬ久子は、会下山を後にした夫の様子を詳しく知りたかった。湊川で戦う仲間を呼んでくるぞと言った時、正成には自決のそぶりはなかったのであるから、竹童丸にも全く思い当たることはなかった。
「ではその時、陽は高くとも既に夕刻であった由、湊川の戦線は足利の将兵によって既に突破されていたのだろうね?」と久子は尋ねた。
「いいえ、楠木勢、菊池勢合わせ、数十倍の敵を相手に戦っておりましたが、その時はまだ戦線を突破した敵兵はおりませんでした。それどころかその日は最後まで直義の本陣も、尊氏の本陣も、湊川の西から移動することはありませんでした。」
  久子はこれを聞いて夫が湊川の戦場から戻らなかった理由がようやく解りかけた。
「儂と一緒に会下山の裏に逃げよう」と言うために湊川の戦場に着いて見れば、そこには「一兵たりとも敵兵を渡河させるな!」という自分の命令を命がけで守ろうと戦っている部下達がいた。自分の命令を守って惜しげもなく命を散らした部下達の死体が転がっていた。我が夫なら、楠木正成なら、そんな時にどうして我が命を惜しめるであろう。久子の目頭が思わず熱くなり、竹童丸の顔が曇って見えなくなった。

太平記にある正成・正季の七生報国の誓い

  太平記では七生報国(七度天皇の忠臣と生まれ、その度に国の賊を討つ)を誓い、正成と刺し違えたことになっている和田正季は、近年の霊牌調査によって亡くなったのは五月二十五日ではなく、同年七月三日だったことが分かっている。即ち正成・正季が自決の前に「七生報国」の誓いを立てたというのは虚構であったのだ。正成が身内と刺し違えたことが本当に事実なら、その相手は弟の正氏か、義兄の正忠だったと考えるしかない。このことを記した高橋淡水氏、碧瑠璃園氏共著「大楠公夫人」の書が手元にあるが、初版が大正十年であることは、戦争中に多くの若者を特攻機に乗せる作戦を精神的に鼓舞した「七生報国」伝説は事実ではなく、後の四条畷の戦いと湊川の戦いの因縁を作っておいて話を面白くするための脚色だったことを、戦前から日本軍は知っていたことになるのだが、このことは国民に広く知らされることはなかった。
  烏原村は現在ダムの貯水湖の下に没しているが、明治大正の頃には楠木の落武者の末裔が住んでいると信じられていた。総ての宗教は「唯神実相」の真理に帰一すると説いて、筆者の信仰を導いてきた「生長の家」の創始者、谷口雅春先生がこの村に誕生され、今は昔となった昭和の時代を貫いて、真理を具象化したものが「天皇国日本の大和理念」だと力説されていたのも、筆者には因縁めいたものを感じざるを得ない。(次号に続く)                  

次回のお知らせ 「楠木一族、後醍醐天皇の吉野脱出をお助けする」

ページTOPへ