5世紀に都がおかれた由緒ある地域・・・・丹比(タジヒ)
古墳時代に都がおかれたタジヒの地 その昔、古墳時代は河内王朝の時代に、この地域を丹比(タジヒ)と呼んで、そこに都がおかれたことがありました。タジヒは北部と南部に分かれ、北は丹北郡、現在の松原市にあたり、南は丹南郡、現在の美原町にあたります。河内王朝最盛期の仁徳天皇が難波高津宮の高楼から民の暮らしを跳められ、炊煙が少ないからと民の窮乏をお知りになって後三年の課役を免除された、という聖帝伝説を知る人は多いでしょう。仁徳天皇崩御の後、長男のイザホワケ王が第十七代履中(りちゆう)天皇として高津宮で即位なさることになりました。ところが次男の住吉のナカツ王は、同じ葛城のイワノヒメ皇后の腹から生まれながら何故自分は即位できないのかと不満を爆発させ、こともあろうに大嘗祭の夜にクーデターを起こして難波宮に火を放ちました。そんなこととは知らずに宮殿奥の寝所にて天皇はすっかり深酒を召されて酪酎状態におられました。忠臣アチノアクエが機転をきかし、お眠りになったままの天皇を御殿から連れ出して馬に乗せ、たった一騎で火災の騒擾に紛れて脱出し、意表を突いて敵地住吉を駆け抜けたのです。
アチノアクエは三男のミズハワケ王が支配される丹比の地に入ったところで向きを変え、竹内街道に入って大和を目指して東に進みました。天皇が目を覚まされたのは埴生坂(羽曳ケ丘への登り)にかかる頃でした。夜空を焦がして燃え続ける難波の都を天皇は驚嘆の目でご覧になり、初めて事情を察知なさいました。でも反逆者である弟君への恨みも恐れも一切お口にはなされず、こんな山中で野営するのなら風除けの立薦(たつこも、むしろ)くらいは持って来るのだった、と冗談を交じえて歌を詠まれてはお供のアタ工を元気づけられたのです。
たぢひ野に 寝むと知りせぱ立薦も 持ちて来(こ)ましもの寝むと知りせぱ (履中天皇お歌)
(丹比野に寝ると知っていたら、宮殿から風よけの立薦(たつこも)くらいは持ってきたのに)
   埴生野の林間に一泊した主従は翌日大和に人り、石上神宮にて大倭(おおやまと)の豪族たちに無事保護されました。石上神宮には大和朝廷の武器庫があったと伝えられています。これで天下は決し、丹比のミズハワケ王も天皇への忠誠を明言され、反逆者の兄ナカツ王を攻められることになりました。しかしナカツ王は戦う前に寝返った自軍の将ソバカリに暗殺されてしまうのです。ソバカリは褒美を貰おうとして逆にミズハワケ王に誅殺されました。
その後大和の橿原にて国を統治なさった履中天皇が崩御された後は、ミズハワケ王が都を再び河内に戻され、丹比の柴籬(しばがき)の宮にて反正(はんぜい)天皇として即位されました。反正天皇の御代は五穀豊穣にて泰平が続いたと伝えられます。柴籬宮の跡地には柴籬神社(松原市上田)が祀られています。また美原町多治井にある丹比神社にも反正天皇が産湯を使ったと伝える井戸が今も残っています。(完)